わたしが榊と出合ったのはもう15年近く前のことになる。
当時の榊は梅田の堂山にある「シネマ・ヴェリテ」というミニシアターのオーナー支配人だった。
「シネマ・ヴェリテ」はその当時はやりのアート系映画館のはしりで、今でいう単館系映画館をもっと過激にかつセンセーショナルにした感じのもの。映画館と言うよりアートそのもの、トレンドであり文化の最先端であった。だから映画ファンが集まるだけではなく、サブカルチャーをファッションとしてとらえていた若者たちが、まるで耳にピアスをするような感覚で映画を見に来ていたものだ。100人にも満たない小さな映画館の狭い入り口にはポップアートのようなシネマポスターが貼られ、オブジェがわりの自転車が置かれ、ちらかったチラシなどの印刷物の上にはエスニックな布が無造作にかけられ、おまけにお香まで焚かれている。ロードショー系の映画館から見れば信じられないような異質な光景のなかで、時代に乗り遅れることを恐れるかのように集まった若者たちが熱いエネルギーを発していた。まさに時代はバブルの真っ只中であったのだ。
ブームの波にのって、扇町ミュージアムスクエア、シネマアルゴ、国名劇場、テアトル梅田などが次々と人気を集めひとつのムーブメントとなりはじめる。唯一の個人オーナーであった榊はマスコミで様々に取り上げられるようになり関西サブカルチャーの雄としてまつりあげられた。
当時の榊の口癖は「1等賞」という言葉だった。
夜、仕事の打ち合わせが終わると飲みに行く。そこで彼はしつこいくらいにこの言葉にこだわった。
「関西のアート系映画の世界で1等賞をとる」
もうすぐ目の前にトップの座が見えてるじゃないか。時間の問題じゃないか。そんな時になっても榊は執拗にこの言葉を繰り返した。
そして「裸のランチ」がミニシアターとしては記録的なロングセラーとなり、東宝から映画配給のオファーがあるに及んで、榊はまちがいなくこの世界でトップに立った。
ところがと言うべきか、だからと言うべきか・・・榊はそのままゴールしてレースをやめてしまったのた。
「シネマ・ヴェリテ」は突然閉館する。
時代の確実な変化も感じていただろう。そういうことには敏感な人だ。
運営にかかわる様々な事情もあったろう。その一部はわたしも承知している。
しかし、最大の理由は榊にとって先頭をずっと走り続けるより、笑顔でかっこよくゴールすることこそがレースに参加していた唯一の目的であったということだ。このことがわからなかった榊の周りの人たちは、驚き、狼狽し、残念がった。でも、そんなことは榊の知ったことではない。榊の目的は首尾一貫して、がむしゃらに周りのランナーを抜き去ったあとにゴールすることだったのだから。
思ったよりも早くゴールにたどり着いてしまった榊は当然のそのままゴールインして、自らあっさりとレースを終わらせてしまった。
そして、「シネマ・ヴェリテ」は伝説となった。
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